月刊隆史 2021年4月号『誕生に寄せて』

序章

多くのホモサピエンスは、衝動的になんらかの行動をしたくなりがちである。自分も例外に漏れず、よく曲を作りたくなるし、よく文章を書きたくなる。しかし、衝動的な始まりには緩やかな終わりがつきものであって、その様な衝動をなんらかのまとまった成果としてまとめるというのは至難の技である。

ある日、浴槽でお湯に浸かりながら、衝動的にこんなことを考えた。

「周期的にくる衝動を恒常的な欲望と等価なものに変換するためには、時間を”衝動が現れる周期のスケール”で離散化すればいいのではないだろうか。」

高尚そうなアイデアだ。僕は体を拭きながら、この仮説を検証することを決めた。

「成る程、僕の場合は一ヶ月に一回くらいは曲や文章を残すことへの衝動が訪れる。その成果物を一ヶ月周期で制作するということを最初から決めておけば、僕の衝動的な欲望は恒常的な欲望と区別が付かなくなるということか。」

一見高尚なアイデアが、『月刊隆史』という平凡な結論に落ち着いた瞬間であった。

音を鳴らす行為に論理的にたどり着きたい。

自分は天才ではない。

最近になってようやく、まだ完全にではないにせよ、だんだんと正面から受け入れる事ができる様になってきた気がする。古今東西、あまりにも多くの天才性を目撃しすぎたせいかもしれない。あるいは、”天才でない”という事が”目標を諦めるべきである”という事を意味しない事にしっとりと気が付いてきたからかもしれない。いずれにせよ、どの様な意味に於いても僕は天才ではない。

天才でもない人が、音楽などを作って誰が得をするのだろうか。

これまで制作してきた曲は、そんな観念に囚われてほとんど公開していない。中には自分でも気に入っている曲もいくつかあり、それらを一人で聞いて楽しむことも珍しい事ではない。よく考えてみるとそれはそれで、原始的で純粋な音楽というものを体現している気もしている。そんな気もしていて、そんな気はしているのだが、それが単なる言い訳だということを僕は知っている。つまるところ、僕は自分の曲を公開することを味方してくれる様な筋の通った言い訳を、これまで見つけることが出来なかったのだろう。

言い訳がなければ行動に移せないだなんて、そんなにも情けない事があるだろうか。さて、情けない人類の一人である事が明らかになった僕は、再びその称号を受け入れることにした。なぜなら、自分が天才ではないと受け入れたおかげで、この問題に対する僕なりの解決を見たからだ。

何千回も歌われた様な歌詞をもう一度歌うということは、何億回も生み出された人類として凡庸な自分が存在していることくらい無価値である。それを考えれば、自分が生きていて良いことと同様に、何度でも無価値な歌を塗り重ねてよかろう。

誕生に寄せて

※ここには後に曲が入る。ひとまずその為の場所取りをしておく。

裏序章

つまるところ、これは20歳を終える事への焦りだ。

予定説的な焦り、なんとしてでもその証拠を作らなければならないとそう感じている。

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